2022年07月19日

荒浜小学校つづき

引き続き、荒浜小学校 をご紹介する。



外周金属部は、海水に洗われたこともあって錆びている。


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そもそもが海に近い地区であって
塩害はそれなりにあったことであろうが
直接海水がつけば、より進行しやすかったであろう。


こういう部分は、経年によってますます劣化し
徐々に津波被害なのか経年劣化なのか見分けがつかなくなっていくかもしれない。



校舎裏手に、エレベーターが設置されている。


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震災前からあったものか、遺構として整備するにあたり新設したものか、
パッと見は、わからなかった。
今思えば、銘板とかいろいろ確認すれば良かったのであるが。



外壁に並んでいたはずのフード付ベントキャップも
脱落しているものが多かった。


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躯体のEXPJ部分のカバーも取れていた。



避難バルコニー的なものがついていたであろう壁面も
今はこの通りである。


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裏手(北側)には、比較的設備系が多く設置されていたため
その被災の様子もまた、よく残されている。


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耐えた、ガスメーター。


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もちろん、現在は供給されていない。

鋼製建具よりは、剛性が強かったようだ。



ステンレス換気フードは
ひしゃげつつも残っていた。


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ガス給湯機用の排気トップだろうか。

瓦礫がぶつかれば、耐えられまい。


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鋼製枠と網は後付けだ。



給食室の中を、網越しに見ることができる。


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外壁沿いの鋼管は、支持材も含めて健在であった。


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中には立ち入れないので、写真が掲出してあった。


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外壁には、
被災したもの、
遺構として整備する際に新設したもの、
いろいろ混在している。


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大きな開口部は、
建具がまるまる失われていた。


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海と反対側の西面は
比較的損傷が少なく見える。


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もちろん、他の面と同様に
2階床上までは浸水しているのである。



校舎西側には、体育館が残されていたが
既に撤去されていた。


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大震災の前年、チリ地震津波の経験をもとに
体育館ではなく屋上に避難するように
オペレーションを変更していた。


避難所の体育館ごと津波に流された地もあった中で
この変更によって助かった児童・地域住民は多い。


もしも何らの変更なく
従来どおり「避難所は体育館」としていたままであったら
数百人の生命がどうなっていたか。



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写真には写っていないが、
校舎脇にプレハブが建てられていて
管理事務所的な役割を果たしていた。
(そこに、トイレもある)



児童昇降口廻り。


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柵はもちろん、遺構整備にあたって新設されたものだ。



軒天の照明器具も、錆び錆びだ。


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まあ、津波以前から錆びていたとしても
おかしくはない立地ではあるが。



FFの給排気トップと保護カバーは
健在だったのか、後日補修されたのか。


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あまりにキレイなので、少々不思議に思った。



「この高さまで津波が来た」と

看板が掲げられている。


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家も車も木の葉のように流される津波に抗って
鉄筋コンクリート造の耐震改修済みの校舎が
いかに強力であったかを再認識できたりもする。


地域の「津波避難ビル」としての役割を
立派に果たした。


この地域で失われた命も少なくないが、
助かった命もまた、相当数にのぼるのである。
(「荒浜小学校つづき」おわり)
posted by けろ at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 防災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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