かつての 市立荒浜小学校校舎 である。
東日本大震災により生じた津波により東北沿岸で多大な被害が生じた。
その中にあって、児童や周辺住民が避難し、屋上からヘリで救助されて助かった場所である。
地震津波報道で盛んに報じられていたこともあって
見覚えのある方も多いかもしれない。
この震災遺構については、『設備と管理2022年5月号』で記事にさせていただいた。
特に設備系の内容については、バックナンバーをご参照いただきたい。
仙台市の太平洋岸にほど近い荒浜地区。
かつては、この小学校がある通り、宅地が広がっていて多くの住民がいた地区である。
津波によって完全に洗われてしまい、かつての面影を残すのはこの校舎くらいである。
仙台市地下鉄東西線の荒井駅からバスが出ていて
車でなくても行きやすくなっている。
1時間に1本のバスが走っている。
開館日、開館時間については、事前に確認されたほうが良いだろう。
車で行くにしても、周囲にはあまり大きな建物がなく、
そして浜に向かう県道沿いに目立つ看板が立てられているから
比較的わかりやすいことであろう。
駐車スペースも十分にある。
大型バスも何台も停められるので
震災の記憶を伝承するための学習の場としても活用されるようだ。
街そのものが喪失したため、
学校も震災を契機に閉校となった。
人口減による統合や閉校ではない。
地区に多大な犠牲者を出した大災害の記憶を伴う閉校だ。
関係の方々にとっては、悲痛な記憶でしかないことと思う。
しかし、この大災害を後世に伝承し、また必ず来る津波に際して
犠牲となる方が少しでも減ずるようにと
遺構として保存することを決断された。
遺構内外に、被災当時の写真とともに説明書きが設けられている。
現在はきれいに片付けられているが、
数次の津波襲来に伴って流されてきた瓦礫類によって埋め尽くされた教室が
そのすさまじさを物語る。
遠隔地から、また海外からの見学者も想定して
震災の概要から英語表記とともに説明されている。
報道を通じて目にされた方も多いであろう
ヘリからの光景もある。
完全に水没した1階、
床上まで浸水した2階、
避難場所であった3・4階と屋上。
3階以外の部分が見学できる。
外周を巡る。
窓ガラスは割れて喪失下部分もあるが
残っている部分もある。
耐震改修工事は行われた後であったから
地震動による構造被害は無かったようだ。
津波によって流されてきた諸々によって
手すりなどの損傷は大きい。
屋外露出の設備関係は
ことごとくやられている。
2階床上まで浸水した。
損傷の有無で、それを推し量ることができる。
ところどころに設置されているパネルで
被災前後の様子を比較することができる。
当然、被災直後と現在とも様子は異なる。
耐えたもの、耐え得なかったもの、
そのまま、ありのまま保存されている。
損傷し開口となった部分は
防犯上の意味も含めて格子で閉塞されている。
換気扇のフードは、流された。
屋外照明も、流された。
二宮金次郎も、流された。
台座ごと持っていかれたが、
どこか遠くまで行ったわけではなかったようだ。
もう、震災から11年以上過ぎてしまったが
実際に被災した方々にとっては何年過ぎようが
忘れ得ない苦痛であったに違いない。
家族友人知人の多くを亡くし
自らも辛酸を舐めた期間が相当にあったはずである。
他の被災地でもあったように、
その存在が余りに辛く、
被災の面影があるものはすべて除去してしまいたい、
そういう願いを持つ方もおられたであろう。
しかし、だからこそ、
被災しなかった人々に対してその記憶を伝え、
遠からぬ将来必ず再びやってくる津波に対して
警鐘を鳴らすために
悲痛な記憶を呼び起こすとも敢えて遺す。
そういう決断をした人々もまた、多くおられたのである。
機会があれば、
いや、機会を無理に作り出してでも
一度は訪れてみたら良い施設であると
思うのであった。
建築、設備、インフラ、地域、防災、避難、
いろんな側面で、考えさせられること、感じられることが
多くあるはずである。
(「震災遺構仙台市立荒浜小学校」おわり)