何らかの情報を、読み手に伝えるためのものである。
そうに違いないのだ。
宣伝文句が書いてあるものは
如何に気づいてもらうか、読んでもらうか、
苦心していろいろな方策を練り、
視線を惹きつけるべく鋭意精進しているはずのものなのだ。
増してや、注意喚起を促すためのものをや。
少量危険物貯蔵取扱所として、
火気厳禁を周知して然るべき
いわゆる「危険物看板」は
しっかりと目立ち、はっきりと読み取られてこそ
その存在意義があるものだと言えよう。
それにもかかわらず、
過日目にしたソレは、なんとも心許ないモノではあるまいか!
こうやって近寄って撮影でもすれば、
その言わんとすることが朧気ながらわかるとは言え、
少々離れてしまうともはや、
ただの紅白看板でしかないシロモノと成り下がっているではないか!
お目出度いのか?
慶事なのか?
そうじゃないだろう?
日光に含有されるエネルギーの威力がわかるとしても、
そんなことを知るためのモノではない。
適切に保ちたいものであるっ。
なんだけど、日々、ちょっとずつ、ほんとうにちょっとずつ、
徐々に徐々に薄くなっている文字の事なんて、
毎日のように視界に入っていたとしても、
いやむしろ、そうであるからこそ、
気づくことはできないのであろう。
たま〜に第三者が見て回って
「あれれ?」
と気に留めるまでは、
そしてそれを、建物所有者が
「そうだね、何とかしなくちゃね」
と受け入れて何とかするまでは、
この状態は維持継続発展していくものなのである。
そういうものなのだ。世の中というのは。
(「もう読めなくなっている看板の存在意義」おわり)