その「せつび」を観ない筈はない。
科博側の外壁面。
排煙窓が見えるのみだ。
こういうモノを見せたくなければ
機械排煙にするしかない。
横には、大きなガラリ。
給気か、排気か。
とにかく、建物内外の空気のやりとりをする場所が
必ず必要になる。
別の面にも、
ガラリを設けている。
また、非常用発電機が据えてある。
屋上には、風向変更用のダクトを取り付けた状態の
冷却塔が数基。
結構目立つ位置についている。
もちょっと向こうには、煙突も見える。
ボイラーか何か、とにかく燃焼機器がついている(もしくは、ついていた)証拠だ。
冷却塔はでっかくて目立つけれど
そうと知らずに漠然と眺めていると
意外と気づかれないものだったりする。
不思議なものだ。
絵画展示の脇に、
消火栓箱も設置されている。
もちろん、絵画に当てられる照明も
必要に即して取り付けられている。
ところどころに観られる、
リターンガラリ(たぶん)。
床面から天井面まで、ズドンと設けて
必要面積を確保しているようだ。
コンセントのプレートは
今どきの樹脂製にされていなかった。
排煙窓、操作ボックス、ダウンライト。
行く先には、トイレも設けられている。
天井の高い展示室の上部は
トップライト様の照明器具だ。
ピクチャーレールの上部は、
吹出口か、吸込口か。
高さ的には、こんな感じ。
科博のように露出になっている「せつび」は多くないから
あんまり目立たない。
(目立っても困るだろう)
だから、「美術館」のせつびについて記述するためには
どういう設備が設けられるものなのか、なんとなく把握しておいたほうが
よかろう。
バックヤードの平面計画だって、同様だ。
建築物は、目に見える部分だけで成り立っているのではない。
目に見えない部分が適切に設けられてこそ、きちんと成立する。
目に見える部分だけに囚われて、他を見過ごしてしまうことがないようにできると
いいんだろうさ。
「人は見た目が9割」
なんて本が流行ったこともあるが
その人の心のうちとか、価値観とか、臓器の働きとか、
そういう面も決して「どうでも良い」ことではないのであって。
建物に関して、見た目も大切であって、
デザイン的要素がその魅力に繋がるものであることは理解するように
少しはなったのだが、
それでも「その他の部分」の重要性を減じてしまうものでないことは主張したい。
設備がしっかり機能できない建物は、
利用するための施設ではなくなってしまって、
単なる「オブジェ」「モニュメント」と化すのではあるまいか。
そう極論してみたくもなる。
ル・コルビュジエさんが設計したというこの施設について
(もっとも、今回お示しした写真は、彼によらない増築部分ばかりであるが)
設備設計者は埋もれてしまっているけれど必ず存在したはずであり、
現在の状態に至るまでに数度繰り返されたはずの設備改修には
多くの設備技術者が関与していたはずである。
そういう「埋もれた」人たちにとって
誰々の設計というレッテルよりも
それを活かし実用に適うものとなさしめたという自負だけが
その価値なのかもしれない。
単なる「自己満足」と言い換えられてオシマイ、かも知れんけど。
(「国立西洋美術館の設備」おわり)