2018年04月30日

『事実確認』は難しいんじゃないか?

「事実」とは何か?

それを、どう確認するのか?

モリ・カケとか、セクハラとか
政治の世界でも何かと賑やかである。

証拠がどうの、
過去の発言がどうの、
音声データが、
密室の状況が……など
「本当は、どうなのか?」がわかりにくかったりする。

文書、画像、動画、音声といった
「明白な証拠」を示していたり、
でもそれは全体の一部分であったり、
わかりにくいと感じる面もある。



フェイクニュースであっても、
それらしい画像や音声がリンクされていて
真実味を感じさせるようなものがあったりもする。

クライシス・アクターなる職業があるのでは、という言説を
目にしたりもする。

シリアからの映像も、
一体何が真実なのか、図り難い。



何かの事象に対して、

「これは酷い」
「許せない」

そんなコメントが溢れ、
批判が殺到することもある。

ところが「酷い」「許せない」と感じさせた根拠が怪しかったり
逆に「怪しい」と思わせて真実を隠蔽しようとしたりということもありそうで
「事実確認」に困難を覚える。



「一次情報」と称するものが
本当にそうなのか、確かめる術が無いことも多い。

と言って、自分が行って確かめるのも難しい。

たとい現場に行ったとしても、
すべての事実を正確に把握することが出来るかどうかと言うと
これまた難しい。

かえって、現地で見てきたからこそ、
目に見えたものについて「これこそが真実だ」と信じてしまい
現地で「見えていなかったもの」があたかも「存在しないもの」であるかのように
錯覚してしまう恐れもある。



ネット社会では、
報道機関にとどまらず、
多くの人々が発信することができる。

しかし、玉石混交。
真実も、意図的な虚偽も、
真実と信じているだけの勘違いも、
情報不足による無知も、
偽情報をつかまされてしまった故の判断間違いも、
同列に検索に引っかかる。

それらを見分けるのは難しい。



結局、本当の事を知っているのは当事者だけだったり。

いや、当事者すら事実の全貌を掴んでいないことだってあるだろう。



ツイッターのような即興的な発信手段は、
いろんな事をじっくり思い巡らせないことを助長してしまっているように思う。



センセーショナルなニュースの見出しだけを見て
脊髄反射的に判断し、思い込み、怒り、批判する。

長文の報告書に書かれている、
さまざまな注釈や留意事項になど
意識が及ばないのである。




さて、そこかしこで騒がれているあの事件この事件、
事実は如何に?



正しい実態を、
正確に認識し、
間違いなく確認し、
十分に検証し、
正当に評価することが
どれくらい出来ているだろうか?


ほぼ、出来ていないんじゃないだろうか?
(「『事実確認』は難しいんじゃないか?」おわり)
posted by けろ at 09:00| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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